ショートランド諸島










太平洋の戦跡を訪ねて 
戦場となった南の島々を巡る写真紀行のページ   

ショートランド諸島

(Shortland Islands)

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 ソロモン諸島国の北西端、パプアニューギニア(PNG)領ブーゲンビル島の南側にちらばる島々がショートランド諸島である。このうち、私が行ったことがあるのが以下に紹介するバラレ、ファウロおよびピエズ島である。地図上では不自然に国境が引かれてはいるものの、この辺の人々はお構いなく行き来しているようであり、私はそのお陰で一度難を逃れたことがある。

バラレ(Balalae、BalalaiまたはBallale)

img086.jpgバラレ島の浜辺(昭和63年10月撮影)
バラレはショートランド諸島の中でも比較的小さい無人島ではあるが、ソロモン航空の飛行機が週2便(平成16年2月現在の時刻表による)この場所に降りるのは、ここからファウロ、ショートランドなどの島々へ渡る玄関口になっているからであろう。飛行場は、戦中日本軍設営隊が築いたものをほぼそのまま使用しているものと思われる。とても小さな島ではあるが、良く名前が知られているのは、この地を根拠にした航空隊の活躍があったことと、そして何より山本五十六連合艦隊司令長官の最期の飛行の目的地であったことによる。

私がこの島に行ったのは3回、昭和63年ファウロ島への往復の途上の立ち寄りと、翌年ブーゲンビル島旅行中に暴動が発生して緊急避難した際である。ジャングルの中に滑走路が一本通っているだけの島であり、飛行場も無人でバス停のような待合所があるのみ。

img087.jpg施設というのはこの待合所というだけのバラレ空港。両側には日本軍機のプロペラが飾られている。
戦後、ボブ・ディマート氏が復元し飛行させた九九艦爆、現在ニミッツ博物館に展示されている九九艦爆など、多くの飛行機がここから回収されたが、回収されなかったトラック、飛行機など多くの戦争遺物が今もジャングルの中に訪れるものもほとんどないまま残されている(英領ソロモン諸島が独立してソロモン諸島国となって以来、政府は戦争遺物の国外持ち出しを厳しく禁じている)。

img018.gifジャングルの中にに残るトラックの残骸。爆風にやられたのであろうか、原型を留めない程破壊されている。昭和63年10月。img088.jpg 待合所のとなりに置かれたプロペラの中心部。スピナーの角度から見て、陸攻のものではないだろうか。平成元年3月撮影。

img089.jpg同じプロペラを別の角度から見る。
img090.jpg一式陸攻の残骸。ブーゲンビル島からの避難の途上見られた。平成元年3月撮影。img091.jpg操縦席が残る残骸の内部。他の残骸同様計器類は持ち去られている。

ファウロ島(Fauro)

img092.jpgファウロに残る桟橋の残骸。豪軍が造ったのか、日本軍のものかは不明。

 ファウロ島はブーゲンビル海峡に浮かぶ島々の中ではショートランドに次いで大きい。ファウロには戦時中歩兵第45連隊の一部などが駐屯していたが、連合軍の上陸は無いまま終戦を迎えている。停戦後にはこの島に捕虜収容所が設けられ、ブーゲンビル島周辺で終戦を迎えた陸海軍人が引揚までをこの島で過ごした。ちなみに、昭和21年1月から2月にかけてのこの方面からの引揚輸送には空母「鳳翔」、「葛城」、病院船「氷川丸」などの有名艦船も使われている。以下、引揚船の入港日、輸送人数を記す(データは暁会編「ああ陸軍の海戦隊記」より)。

日付
艦船名
輸送人数
1月20日 鳳翔
8,000名
1月25日 葛城
5,000名?
1月25日 鹿島・春月
2,600名?
2月7日 有馬山丸
1,366名
2月10日 熊野丸
3,610名
2月12日 日昌丸
3,100名?
2月12日 氷川丸
3,600名?
2月12日 鳳翔
2,500名?
2月26日 葛城
3,708名

 周知のことではあるが、ここに出てくる「熊野丸」はただの輸送船ではなく、飛行甲板を持ったいわば陸軍の簡易空母ともいうべき船である。「空母形」の船を三隻も投入していることから、日本から最も遠いこの地からの引揚げ輸送に如何に力が注がれたかが分かる。空母「葛城」の雄姿(飛行甲板は爆撃でめくれ上がっていたにせよ)を目にしたオーストラリア兵は、「こんな大艦を持ちながら、なぜ日本は敗れたのか」と驚いたそうだ。それまで空母など目にしたこともないであろうこの兵には、米国が対戦中にエセックス級空母17隻と、数え切れないほどの護衛空母を完成させたことなど、もちろん思いもよらないことであったろう。

 ファウロは山がちな島であり、この島の主要な村落、カレキ村のすぐ後ろには400m級の山が二峰聳えている。ファウロで抑留生活を送った兵士の手記では、その風景を『ファウロ島は原始のままのジャングルで、椰子林すらない。上陸点は湿地帯で、マニラ麻や籐が巨木とともに、びっしりと壁をつくっている』と形容している(藤本威宏「ブーゲンビル戦記-一海軍主計士官、死闘の記録」白金書房)。いまのファウロには原始のままでもないだろうが、ジャングルが海岸近くまで迫っていて、切り開かれているのは村の周辺一帯だけである。雨が降ればジャングルから立ち上る水蒸気が手の届きそうな低さで雲になっていて、私にも何か原始の世界を想像させるような光景に見えたものだった。

img093.jpgカレキ村から裏山を望む。家はみな高床式だった。
 私がファウロを訪れたのは昭和63年10月、遺骨集集団に参加したときのこと、10月10日から17日までの一週間ファウロのカレキ村に滞在し、無人島であるピエズに収骨に通った。宿舎となったのが、カレキ村にある高床式、トタン屋根の結構立派な家であった。村で一番の家を日本人のために空けてくれたのであろう。島には電気も水道も勿論ないが、この家には屋根の水を集める天水桶の蛇口から水が出るという贅沢な造り。しかも、灯油バーナーもあって数分で湯が沸騰する。海風が入る涼しい造りで、実に快適であった。

img094.jpg宿舎になった村はずれの邸宅。img095.jpgスピードボートでピエズ島から帰還。

 ファウロでの生活はボーイスカウトのキャンプのようで(経験はないが)、それまでの人生にない楽しさを経験した。私は実家から学校に通っていたので米を炊くのもほとんど初めてだった。洗濯も入浴も、そしてトイレも全ては近くの小川で、「大」の方をすると小魚がすぐに寄って来るのを見ては笑っていたのを思い出す。夕方、集骨作業のあとで水を浴びるのは気持ち良かったが、すぐに寒くなって歯がガチガチと鳴っていた。私が「枯木荘」と勝手に名づけた宿舎の他、村の建物は全て椰子の葉葺きの屋根で壁も椰子の葉で編んだようなものである。

img096.jpg日傘を差すおしゃれな女性。芝生の美しさも印象的である。img097.jpgこれもおしゃれなファウロの若い女性たち。工夫をこらした髪型をしている。

 遺骨集集団で滞在中のこと、ソロモン諸島も他の太平洋諸島と同じくカトリックの信仰心がとても強く、日曜日は安息日として働かない。作業人足もボートも出してもらえないので遺骨収集もできなかったが、子供の誕生パーティーに招待してくれて貴重な交流の機会を設けてくれた。この国でも子供たちは大変人懐こく、可愛いものだった。子供たちが持ち寄る貝殻とTシャツ、運動靴などを交換したのも良い思い出である。

 懐かしい思い出の残るファウロだが、ネット上で得た情報ではこの平和な島もブーゲンビル紛争の影響を免れず、私の滞在したカレキ村もブーゲンビル独立派ゲリラの拠点であるとしてPNG政府軍の襲撃を受け死傷者を出してしまったという。自分が出会った村人たちは無事なのか、気がかりだが確かめるすべも無いのが何とも残念でならない。