トラック諸島










太平洋の戦跡を訪ねて 
戦場となった南の島々を巡る写真紀行のページ   

トラック諸島

(Truk、現在はChuukと呼称)

img631.jpgトラック諸島モエン島の慰霊碑。「和」の一字のみ刻まれている。

 トラックは現在は現在はミクロネシア連邦国の一州で、チュークと呼ばれている。直径65kmの世界最大の環礁内の約50の島よりなり、面積は合計で95平方km、人口は1985年時点で約4万(平凡社「太平洋を知る事典」より)。

 前述のように、トラックは環礁の中に島々が点在しているのであって、「トラック島」という島がある訳ではない。主要な島々は日本時代に春島と呼ばれ、現在飛行場や政庁のあるモエン(Moen, 現在はWenoと呼ばれるが、ウェノではなく、ワーロと発音。)島、日本時代に南洋庁支庁が置かれ行政の中心であったデュブロン(夏島、現トノアス:Tonoas島)などの旧四季諸島、南洋庁時代は月曜から日曜までの曜日名を振られた旧七曜諸島である。さらに、「竹島」(エテン)、「楓島」などの小さな島々が散らばる。
トラックへは平成4年12月と19年8月に訪れた。

トラック環礁の沈船群

 トラックは言わずと知れた大戦後期まで連合艦隊泊地が置かれた地であり、昭和19年2月17、18両日、米第58機動部隊の攻撃を受けて壊滅的な打撃を受けたことで良く知られている(ただし、連合艦隊主力はそれ以前にトラックを去って難を逃れたが)。このトラック大空襲の際に沈没した艦船は今では沈船ダイバーたちのメッカとなっている。

 環礁内に沈んでいる艦船は四十数隻の多きに及び、2回しか訪れていない私がダイビングで見られたのはそのうちのごくわずかである。これまでに見た船名は以下のとおり。

 ・神國丸
 ・平安丸
 ・乾祥丸
 ・日豊丸
 ・LinkIcon富士川丸(船倉内に零戦、九六式艦戦あり)
 ・駆潜艇34号(旧駆逐艦「薄」)
 ・愛國丸
 ・五星丸

*各沈船の要目その他のデータは以下の2冊から引用させていただいた。

吉村朝之著「トラック大空襲」光人社

Klaus Lindermann著"Hailstorm Over Truk Lagoon" Pacific Press Publications

灯台跡

 モエン島に残る日本統治時代の灯台にはトラック空襲の際の弾痕が数多く残されており、灯台が重大な攻撃目標であったことが良く分かる。サイパンにあった灯台と同じ規格で作られたものと思われる。眺めの良いこの灯台跡は、見晴台としてあるいはデートスポットとして?今でも少しは地元住民の役に立っているのではないか。最近では道路が閉鎖されてしまって車では行けなくなり、訪れるのは難しくなってしまったそうである。

img237.jpg銃撃の激しさを物語る、多くの弾痕が壁面に残る灯台。img238.jpg灯台頂部のはしごに残る弾痕。7.62mmクラスの機銃弾か。
img239.jpg灯台の内部img240.jpg灯台の屋根からの眺めはまさに絶景

艦上偵察機「彩雲」

img241.jpg「彩雲」偵察員席左側から前方を見る。藪を切りひらきつつ機の左側からようやっと近づいたので、反対側からは撮影できなかった。

 モエン島の空港からそれほど遠くない民家の庭先に、海軍の艦上偵察機「彩雲」が一機放置されている。これを知ったのはホテルでもらったトラックの観光地図に、「日本海軍の偵察機『マート』が眠っている」と紹介されたのを見たからだった。マートとはMYRT、すなわち彩雲艦偵であることは直ぐ分かったので、さっそく訪ねてみた。庭先に飛行機があるという、その家の人に来意を話すと、子供たちが案内してくれる。背の高い草に埋もれていて、近づくのは容易でなかったが、ブッシュナイフで草を刈り、つる草を排除しながら飛行機を見せてくれた。

 見ると、確かにスマートな肢体、三座機であることから「彩雲」と直ぐに分かる。エンジンの減速器カバーには「ホマレ」の字も浮き彫りになっている。興奮しながら写真を撮るが、草木に邪魔されて中々大変である。ダイビングを終えた後での散策なので日も暮れかかっている。ストロボを用意してきて本当に良かった。写真は撮りにくいが、しかし草木に守られた形になって風雨や日光を防いでくれていたのだろう、左主翼は折れているが状態は良く、機体後部の「名称 彩雲一一型」などのステンシルも読み取れた。

img242.jpgimg243.jpgimg244.jpg

左からカウリング前面、エンジンのアップ、主脚とタイヤ。エンジンには「ホマレ」の浮き彫りが明瞭に読める。

img245.jpg左側主翼、主脚まわり img246.jpgエンジン架取り付け部付近
img247.jpgつる草を取り除く以前の偵察員席側面img248.jpg偵察員席に残る座席
img249.jpg「型式 彩雲一一型」のステンシル。その下の製造番号は「第1290號」と読めるimg250.jpg機の周辺に散らばるのはフラップか何かの部品だろうか。

この「彩雲」だが、今日本に移送しレストアする動きがあるという(「航空ファン」No. 636号の掲載記事より)。現在「彩雲」は米国立航空宇宙博物館のガーバー施設にも一機が保管されているが分解して収納されているので、完全復元されて展示されれば、完成状態で見られる世界唯一の機体となる。これが実現すれば、飛行機ファンたちには夢のような快挙であろう。私もマニアではないがファンの一人として嬉しい限りだが、反面、戦いの激しさを物語る証拠がかつての戦地から去ってゆくのも寂しい気もして、少々複雑な心境ではある。

モエン島砲台

 モエン島には、戦時中日本が築いた砲台のいくつかがほぼ原型のまま残されていて、そのうちの一門をハイキングで見に行ったことがあった。ちょうどトラックから日本に帰った頃に読んだダイビング雑誌の記事にはこれらの砲台に残された砲は「戦艦金剛の副砲」と解説されていて、当時はそれを特段の疑問にもせず、そんなものかと思っていた。だとしたら、ヴィッカース・アームストロング社製の15cm砲ということになる。わたしが見た砲は靖国神社にあった陸奥の14cm副砲より一回り以上大きさが違うのだが、そんなことに思い当たることもなくずっと忘れていた。

img251.jpgモエン島に残る砲台の内部。戦艦のケースメート(砲郭)式副砲に良く似た形状の砲台なので、アームストロング社の刻印から「金剛」の副砲と思い込むのも無理ないかもしれない。平成4年12月撮影。

 ところが最近、ホームページ作成の準備で写真の整理中、トラックで撮影した大砲の写真を見て、面白いことに気づいた。砲は尾栓が取り外されていてために普段は見えない砲身の後縁が見えており、そこにイタリア語らしきものが書かれている。英国製ならばあり得ないことである。刻印の文字をルーペで良く見ると、「STABILIMENTO ARMSTRONG-POZZUOLI」と書かれているようだ。

img252.jpg真後ろから見た砲身の後端img253.jpg刻印部のアップ。ネット上では文字がほとんど見えないかもしれない。

 これはどうしたことかと、この文字をネット検索に掛けてみたところ、拍子抜けするくらいに簡単に関連サイトが見つかった。オーストラリアの大学教授でミクロネシア地域に遺棄された8インチ砲を研究されている方のページ(URL:http://marshall.csu.edu.au/Marshalls/html/Sapuk/Sapuk02a.html)であるが、これにトラックの大砲の波乱万丈の歴史が書かれていた。実に詳細な研究であり、内容は信用して良さそうである。

 ページの作成者、Dirk H.R. Spennemann 教授によれば、イタリア語が書かれているのも道理で、どうやらこの大砲は日露戦争前に日本がアルゼンチンから購入した「日進」「春日」の主砲らしいのである。周知のとおり、両艦はアルゼンチンがイタリアに発注したものを日本が横から買い上げたものである。とすれば、バルチック艦隊を対馬沖に打ち破った、歴史的大砲が無造作にトラックに置き去られているのである。それが、日米戦争勃発後(戦前は条約により南洋群島での軍事基地建設は禁じられており、日本はこれをほぼ遵守していた)にトラック防衛のために駆り出されて据え付けられたものだという。日本がそれだけ「持たざる国」だったということだが、工作艦になった「朝日」といい、日露戦争の古兵たちは大戦終結まで良く戦ったものだと感心させられる。

 ご紹介したSpennemann 教授のサイトに書かれているところでは、トラック砲台の大砲はシンガポールにて日本に捕獲された英軍の砲と誤って伝えられているという。トラックだけでなくタラワの砲にも同じ伝承があるそうだ。ミクロネシア政府もこの歴史遺産をもっと宣伝すれば少しは観光客も来るかも知れないのだが、まだしばらくは「知る人ぞ知る」状況が続くのだろうか。これらの砲は日露戦争後、ワシントン条約までは日進・春日とともに現役だったのだろうが、その後何処に置かれていたのか、いつトラックに運ばれたのか、機会を見つけて調べてみたいものである。

その他の写真、準備中。