ブーゲンビル島










太平洋の戦跡を訪ねて 
戦場となった南の島々を巡る写真紀行のページ   

ブーゲンビル島

Bougainville

img178.jpgブーゲンビル島キエタの浜辺

 1768年にこの島を「発見」した(つまりは白人として最初に到達した)した、同名のフランス人航海家にちなんで名づけられた。ちなみに、ブーゲンビリアという花の名も同じ人物から取られているという。政治的にはパプアニューギニア(PNG)の北ソロモン州(Northern Solomon Province)に属するが、地理的のみならず人種的にも文化的にもソロモン諸島の一部である。しかしながら、ヨーロッパ帝国主義諸国による植民地争奪戦の名残で、英領ソロモン諸島とドイツ領ニューギニア(第一次大戦後は豪州委任統治領)の境界線が今日までのこされている。この無理な国境線策定が後にはブーゲンビル独立運動の原因のひとつにもなり、多くの血が流されることになる。

img179.jpgブーゲンビル島ブインの慰霊碑。ムンダで見たものと同じ形状である。

ブーゲンビル島が今日名前を知られるようになったのには、昭和18年4月18日、同島南端ブイン付近で山本五十六連合艦隊司令長官が戦死したことによるところが大きいだろう。この頃はガダルカナルを制圧した米軍が中部ソロモンへ進出しようとしている状況だったのだが、半年後の10月にはブーゲンビルまで敵が迫る。同月28日、ブーゲンビルに近いモノ島に米軍が上陸したのを機に連合艦隊司令部は「ろ号作戦」を発動、母艦航空隊の精鋭を投入しての航空戦を行うも米軍の圧倒的戦力を撃退するに至らず、逆に日本海軍航空隊の方が壊滅的損害を受けてしまい、11月13日ろ号作戦は終了した。この間、11月1日にはブーゲンビル西部のタロキナに米軍が上陸している。タロキナに飛行場を築いた敵に対し、日本軍は上陸直後と19年3月に総攻撃を行うが何れも失敗、その後米軍は豪州軍に後を任せてブーゲンビルを離れ、日米決戦は中部太平洋に舞台を移したためブ島は戦線後方に取り残される形になるが、終戦まで豪軍との戦闘は続くことになる。激戦で名高いガダルカナルの地上戦は半年であったが、ブーゲンビルでは2年弱にわたって戦いが続き、ガ島が『飢島』なら、ボ島(ブーゲンビルはボーゲンビルとも書いた)は『墓島』だと言われる程の戦死者(昭和29年復員局調査によれば42,000名)を出す。

img180.jpgブイン近郊に大破し転覆した状態の飛行機の残骸を見る。img181.jpg尾翼の下に飛行機の型番のステンシルあり。
img182.jpg型式表示部分の拡大。型式 彗星一一型、製造番号 愛知第6544號と明瞭に読める(写真は上下逆さにしてある)。
img154.jpgブイン近郊にて民家の軒先に砲身をもたげる大砲。12.7センチクラスか。img183.jpg同じ大砲のアップ
img184.jpg樹木で巧妙に偽装したかのような大砲。8cm高角砲か。img185.jpg同じ大砲の基部。これもブイン近郊。
img186.jpgブイン警察署前庭に飾られている改造三八式野砲。img187.jpg同じ大砲の砲尾部。

 私は昭和63年10月のソロモン行きの途上で往路と復路に一回ずつブーゲンビル島のキエタに立ち寄っている。このときはホテルに泊まったのみで街を歩いてもいないが、翌平成元年3月にソロモンを旅行した帰路に再訪した際にはキエタからブインまで行き一泊、山本長官機を見てやろうと行ったのだが、折悪しくブーゲンビル暴動が発生して命からがら逃げ帰ることになってしまう。その顛末は下記のページに詳しく記載したので、興味ある方はご覧いただきたい。