パプアニューギニア










太平洋の戦跡を訪ねて 
戦場となった南の島々を巡る写真紀行のページ   

パプアニューギニア

Papua New Guinea

img142.jpgパプアニューギニアの国会議事堂。セピック地方の伝統建築、ハウスタンバラン(精霊の家)の様式を模して1984年に建てられた。議会は一院制で109議席。

 パプア・ニューギニア(略称PNG)は、島としては面積世界第2位のニューギニア島の東半分(西半分はインドネシア領イリアン・ジャヤ)とビスマルク諸島、北部ソロモンのブーゲンビル島などからなる。戦争中は事情通の間では「ジャワの天国、ビルマの地獄」と対比されて「死んでも還れぬニューギニア」と言われるほどに悲惨な戦場であった。

 広大なPNG(面積は日本の1.25倍)のうち、私が行ったことのあるのは首都ポートモレスビー、マダン、ウェワク、有名なラバウル、そしてブーゲンビル島だけであるが他にもニューアイルランド島カビエン、本土のラエやココダ街道、セピック川流域、ブカ島など行ってみたい戦跡は数多い。また多様な民俗風習や世界有数の生物多様性に満ちた自然環境といった観光資源にも恵まれていて、機会さえあれば何度でも訪れたい国である。

首都ポートモレスビー(Port Moresby)

img143.jpg背後にオーウェン・スタンレー山脈をいただくポートモレスビー空港は、かつてのセブンマイル飛行場である。img144.jpgポートモレスビー・ジャクソン空港脇に展示されるDC-3。エア・ニューギニの塗装がされている。

 ポートモレスビーはPNG最大、人口30万を擁する大都会であり、高層ビルの立ち並ぶ町並みは首都の名に恥じない。また、珊瑚海に面し、いくつもの半島と小高い丘に、周囲には小島を配して、と舞台装置に恵まれた大変美しい町でもある。多様な部族社会の集合体であるPNGの縮図として全国各地からあらゆる部族の人々が集まるモザイク社会であるが、そのために残念なことに近年「ラスカル」と呼ばれる強盗団がはびこって極端に治安が悪化し、旅行で行くような場所でなくなってしまった。

img145.jpgオフィスビルや高級ホテル、高層マンションの立ち並ぶ現代的な一角img146.jpg左写真とは対照的に、水上に家の並ぶ集落
img147.jpgポートモレスビーののどかな市場風景img148.jpg市場で見かけた、くじ売りの露天商

 日本軍はこの町の攻略を目指して陸路と海路から試み、その何れも失敗している。ポートモレスビーの街の灯を遥かに望むイオリバイワまで進出しながらも補給が途絶え、豪軍の追撃に遭って急峻な山岳地帯で悲惨な退却戦を強いられた南海支隊の運命は、またその後の日本軍が繰り返し辿った道であった。

ポートモレスビー港には、日本海軍航空隊が昭和17年6月18日に爆撃、撃沈した輸送船MacDhui(マクドゥイと読んだものか)が今も残骸をさらしており、同船のマストは引き揚げられてパプアヨットクラブの敷地に立てられている。

img149.jpg丘から見下ろすモレスビー港 img150.jpg三角形の山の手前がMacDhui号の残骸
img151.jpgパプアヨットクラブの敷地に立てられる、MacDhui号のマスト。平成元年3月撮影。img152.jpgマストの説明版には、沈没時に命を落とした船員の名が記されている。

その他の地域(行き先をクリックして移動)

ラバウル

ラバウルへ南東方面陸海軍の一大拠点

ブーゲンビル島

ブーゲンビル島へ「墓島」と呼ばれた激戦地

マダン

マダンへ補給拠点マダンおよび近郊の戦跡

ウェワク

ウェワクへ東部ニューギニア日本軍最後の拠点